古典

ボアズのPrimitive Artを読み直している。

構造主義との関係をうまくまとめられれば・・、さらにそこからジェルなど現代に通じる芸術人類学の話へとつなげられればと思って読んでいるわけだが、いやぁ、単純に没頭して楽しんでしまう

古典を読んでいるとものすご~く安らぐ。

もちろん当時は当時なりのいろいろなしがらみがあり、問題意識があり、独特の志向性があったのは確かだが、70(80?)年代以前の人類学には、こう、なにかしら牧歌的な雰囲気が感じられる。
楽しいからやってます、なにか?・・みたいな。

もちろん現代に生きて人類学をやってる者としては、「なにか?」に対してたくさんの異議を唱えなければならない。

「文化」が無批判に実体化され、文化の流動的・開放的な側面が人類学者の恣意によって捨象されてきたのは事実であって、フィールドワークをディシプリンとして採用したボアズだってその批判からは逃れられない。
現代の人類学者には、関係系としてのダイナミックな文化(のようなもの)を描きなおすという大仕事が残っていると、私は思っている。

とはいえ。
ボアズとか一日中読んでると、ふと現実逃避をしてしまう。

船に揺られること100日、もちろんその間二度にわたる乗組員たちの暴動を見事おさえ、そろそろ食料も底をつくという頃ようやく見えてきた陸に錨をおろし、生い茂るシダやココヤシの林を切り開き、ヘビや毒グモと格闘し、やっとたどりついた村にて、みずからの携える鉄とひきかえに長老から神話を聞かせてもらい、仮面をつけた未開人らと火のまわりを踊り明かし、また100日かけて母国へと戻り、書斎には長老から友情の証として渡された祖霊像を飾り、満足の体でパイプをくゆらす・・・
みたいな。

ま、ボアズはここまでの時代の人ではないけれど(本書初版は1927年)、とにかく、こういう人生も生きてみたかったなとふと考えちゃうわけだ。


※ちなみにこの本、故F先生の蔵書であったことが判明。
いつの間に私の本棚に紛れ込んだのやら。
もはや遺族にお返しするのも微妙だし、これを一生懸命読むことがお礼となると思ってるが、ふとF先生のことが思い出されて戸惑ってしまう。
死者を思う時、私はいまだに戸惑うしか術をもたない。

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