クジラは歌う

周りを、一瞬にして消化してしまうような笑顔。
そういうのを携えているから君はドンづまってしまうんだ。
ある日、私はクジラにそう言ってやった。
ずっと言いたかったことだ。
後悔はない。
すっきりした。
クジラは何も言わない。
もちろんクジラだから当然だ。
アミをしゃーしゃーと吸い込んで、ふとしたついでにピノキオも吸い込んで、あとは胃に任せろ、そういう奴だ。
そして、あの笑顔。
殴り倒してしまいたくなる、あの笑顔。
だから、言ってやったんだ。
ちょっとうろうろして、ちょっと泣いて、ちょっとくじけて、いいとこそこ止まりなのがわかっているから。
そんな唇の動きまで支配されたような笑顔を携えているから、支配とはなにかを知らないままに支配をくどくど批判して、浜にでもなんにでも打ち上げられて、グリーンピースの連中に立派な追悼までおこなってもらうような最期を迎えるんだ。
私は気づくと泣いていた。
怒っているからだ。
そして、クジラなんかと知り合ってしまった運命を呪っているからだ。
ここは寒くてやりきれないことにも起因しているかもしれない。
それもこれも、クジラのせいだ。
クジラの口車にまんまとのせられて、こんな所まで来てしまった。
家ははるか向こうに、思い出されることもやりきれないという具合だ。
クジラよ。
そんな風に笑っていたいなら笑っているがいい。
私はもうこりごりだ。
クジラよ。
君はどうしてこんな風にしかいられないんだ。
勝手に竜宮城の夢でもみているといい。
クジラよ。
歌え。
声の限りに、どうか歌え。
そんな笑顔を放っておいて、どうか歌え。
歌え。
歌え。
歌え
歌え。

ワシントンD.C.最後の夜

あっという間に日は過ぎて、あっという間にD.C.最後の夜。

滞在中いろいろと更新して記録をつけようと思っていたんだけど、そんな時間もないくらい遊びまくるというとても充実した日々だった。
友人に感謝。

今日はNational GalleryのEast Wingにも行ってきて(West Wingも含め、質量ともに目を疑うほどの宝箱!)、もうやり残したことはないって感じ。


これから家主さん家族がエチオピア料理を囲んだ「farewell」をしてくれる。
たった10日そこらの訪問なのに、嬉しいかぎり。

あ~~~ホント楽しかった!

ワシントンD.C.滞在記

昨日よりワシントンD.C.に来ている。
アート・マーケットの調査をしに、およびエチオピア系移民の調査をしている友人の邪魔をしに。

東海岸に来るのははじめてで、さっそくすべてが新しく、興味深い。

友人宅はD.C.の中でも北東部、とりわけアフリカ系移民の集まっているディストリクトにある。
あまり豊かでもないけど、あまり貧しいわけでもないような地区。
町には古い建物がたくさん残っていて、友人宅も100年以上たっているらしい。
ところどころリフォームしながら、でも枠としては古い建築を残す、こういう精神って素敵だ。

私の知っている「アメリカ」といえばハワイくらいで、それは比較対象としては適切ではないかもしれないけれど、ハワイと比べてD.C.ではエスニシティにしたがって見事な住み分けがなされていることに驚いた。
そしてアジア系がとても少ないことも意外だ。

ちなみに今日はエチオピアの新年で、ちょっとしたお祭り気分が町を活気づけている。
昨夜は(時差ボケと闘いながら)、あるチャーチで行われたエチオピア人の集いに参加し、伝統的な新年の踊りや音楽を楽しむ。
私は職業柄、世界各地の芸能や芸術に接する機会が多いのだけれど、いやぁ~、昨日のエチオピアン・ダンスはすごかった!
ひとつひとつのムーヴが実に独特で、肩や胸を小刻みにゆするのとか、頭を(シャーマンのように)振りまくるのとか、また跳躍力とか、とにかく独特で、もう見入ってしまった。
観客も時間がたつにつれて次第にノッてきて、歌ったり、踊ったり、奇声(・・ではないけど)をあげたり、場内がだんだんと盛り上がってきたのが印象的。

どこの国でも、文化でも、祝祭ってなんかいいなぁ。

これから10日間の滞在予定。
途中2~3日は、ハーヴァードにいる元ルームメイトを訪ねに、ボストンまで行くつもりだ。

いや~、まだ二日だけど、東海岸、楽しい





こんなもんだろ

今日も夕方小一時間のジョギング。
余計なものが溜まらないための、ジョギング。
浮かんでは流し、浮かんでは流す。

しかし不慮の事態で、ある思考につかまってしまう。
死人に口無しとよく言うけれど、あれは嘘だ。
死人は実によくしゃべる。

今日のテーマソングも、昨日を引き継いでレッチリ。

帰りにお花屋さんでワレモコウを買った。
植物博士の父曰く、ワレモコウは「我も紅」という意だそうだ。
だからワレモコウから「私は何色かしら?」と聞かれたら「紅色だよ」と言ってあげなくちゃいけないらしい。

ついでにコミックショックに寄って文庫本を5冊購入。
スタンダール、クリスティ、アーチャーという、とりとめのないセレクト。

そんなわけで今夜は、ビールを飲みながらごろごろと小説を読むとしよう。
贅沢とは、こんなもんだろう。


走れ走れ

10日ぶりくらいに夕方のジョギングを再開

たいした距離ではないのだけど、まるまる1時間、途中休憩は1~2分程度を2回。
10日ぶりにしては悪くない。
汗がどぼどぼ出て、水をくいくい飲みながら走った。
川の水位が驚くほど低かった。

空の色がだんだんと薄くなっていって、そうかと思うと急にオレンジピンクに染まっていき、木の葉のシルエットを優雅に支えていた。

太陽の潔さにはいつも感心させられる。
毎日毎日飽きもせず昇ってきて、たくさんのエネルギーを送ってくれて、時間がくるとあっさり沈んでいく。
光も、熱も、全部連れていく。
じゃ、今日はこれで、みたいな。

走るのは、本当に気持ちいい。
うずうずとウジのようにわいてくる雑念が溜まる暇もなく後ろへ流されていく。
身体を前へ、前へ、前へ・・と持っていくことで、なんとなく逃れられる気がする。
なにから?
・・と、そんなこと今は問わず、ただ身体を祝福しよう。

今日のテーマソングは:

Red Hot Chilli PeppersのCan't Stop
U2のWhere the Streets Have No Name
Macy GrayのWe Will Rock You

などなど。
拳握り締めモードなセレクション。

ちなみに川沿いのベンチで絡み合ってる高校生カップル発見。
世界中のカップルを撃ちまくりたいような気になってる今日この頃なわけだが、高校生はかわいいから許そう

古典

ボアズのPrimitive Artを読み直している。

構造主義との関係をうまくまとめられれば・・、さらにそこからジェルなど現代に通じる芸術人類学の話へとつなげられればと思って読んでいるわけだが、いやぁ、単純に没頭して楽しんでしまう

古典を読んでいるとものすご~く安らぐ。

もちろん当時は当時なりのいろいろなしがらみがあり、問題意識があり、独特の志向性があったのは確かだが、70(80?)年代以前の人類学には、こう、なにかしら牧歌的な雰囲気が感じられる。
楽しいからやってます、なにか?・・みたいな。

もちろん現代に生きて人類学をやってる者としては、「なにか?」に対してたくさんの異議を唱えなければならない。

「文化」が無批判に実体化され、文化の流動的・開放的な側面が人類学者の恣意によって捨象されてきたのは事実であって、フィールドワークをディシプリンとして採用したボアズだってその批判からは逃れられない。
現代の人類学者には、関係系としてのダイナミックな文化(のようなもの)を描きなおすという大仕事が残っていると、私は思っている。

とはいえ。
ボアズとか一日中読んでると、ふと現実逃避をしてしまう。

船に揺られること100日、もちろんその間二度にわたる乗組員たちの暴動を見事おさえ、そろそろ食料も底をつくという頃ようやく見えてきた陸に錨をおろし、生い茂るシダやココヤシの林を切り開き、ヘビや毒グモと格闘し、やっとたどりついた村にて、みずからの携える鉄とひきかえに長老から神話を聞かせてもらい、仮面をつけた未開人らと火のまわりを踊り明かし、また100日かけて母国へと戻り、書斎には長老から友情の証として渡された祖霊像を飾り、満足の体でパイプをくゆらす・・・
みたいな。

ま、ボアズはここまでの時代の人ではないけれど(本書初版は1927年)、とにかく、こういう人生も生きてみたかったなとふと考えちゃうわけだ。


※ちなみにこの本、故F先生の蔵書であったことが判明。
いつの間に私の本棚に紛れ込んだのやら。
もはや遺族にお返しするのも微妙だし、これを一生懸命読むことがお礼となると思ってるが、ふとF先生のことが思い出されて戸惑ってしまう。
死者を思う時、私はいまだに戸惑うしか術をもたない。

二時・・じゃなくて

仕事に疲れてふと外に出ると、比叡山にとてもきれいな虹がかかっていた

もうちょいがんばろう!って気の起こる、こんな午後。